
節分の歴史はそしてその由来は
節分になると有名な神社などでは、有名力士や著名人が豆まきをして、みなさんに分けてくれます。節分になぜ豆まきをするのかご存知ですか?
節分はいつから始まったのか?
節分の由来は?
わかりやすく解説します。
節分になぜ豆をまく
節分には日本各地で豆まきを行う風習が残っていますが、これは鬼となった国常立尊(くにのとこたちのみこと)が出て来られないよう、豆で退治することが目的とされています。
大昔の日本には、国常立尊(くにのとこたちのみこと)という神様が存在していました。
しかし規律に対してあまりに厳しかったため周囲から疎まれ、最終的には地獄に送られ鬼になったという言い伝えが残っています
。
現在は二月の節分のみ代表的な行事が実施されていますが、節分という言葉には元々季節の節目という意味があり、かつては春夏秋冬全ての変わり目も節分と言われていました。
季節の変わり目には邪悪な者が出現しやすいとされてきたことから、神道ではおまじないとして節季祓いを行います。特に二月の節分には、うしとらの方角に閉じ込められ鬼となった国常立尊
(くにのとこたちのみこと)がやって来ることから、北東方面に向かって豆まきを行ってきました。
この風習が豆まきとして現在まで受け継がれていきましたが、現在では邪気を払うよりも家族の健康を願うなど、時代に即したものに意味合いが変化しています。
節分の歴史
節分の歴史は古く、その始まりは平安時代の宮中行事が起源ではないかと考えられています。
平安時代では季節の変わり目に邪気である鬼が生じると考えられました。
この鬼を追い払うために悪霊払いの行事が定期的に執り行われていました。
その行事の一つに大晦日に行われる「追儺」というものがありました。
当時の大晦日は旧暦の12月30日ですので、現在の大晦日とは若干時期がずれています。
この「追儺」の起源は中国の論語に記述があることから、この行事は中国からもたらされたのではないかと考えられます。
「続日本紀」によれば、706年に始まったとされています。
現在の節分と言いますと豆まきが思い浮かびますが平安時代の「追儺」には豆まきは行われていませんでした。
鬼役は役人に追われる点では変わっていませんが弓矢などを使用していたようです。
豆まきの慣習は室町時代に中国からもたらされたと考えられています。
これは現在と同じで炒た豆を使用していたようです。
節分の由来
節分と言えば、今では2月3日を指しますが、本来は季節を分け、それぞれの始まりの日という意味で、立春、立夏、立秋、立冬の前日を指す言葉でした。
その中でも特に、立春は一年の始まり(正月節)として重んじられていたので、江戸時代ごろからは次第に、節分といえば立春の前日を指すようになりました。
これが現在の節分の由来です。
また、季節の変わり目は邪気が生じると考えられており、古くから全国で厄払いの行事が行われていました。今でも節分に豆をまくのはそのためです。
地域差はありますが、「鬼は外、福は内」と言いながら炒った豆を投げるのが一般的です。
炒った豆を使うのは「炒る」が「射る」に通じるためとも言われ、本来はその家の家長や年男が代表して投げるものでした。
豆を投げた後はきちんと全部広い集め、自分の数え年の数だけ食べると無病息災でいられると言われています。
ちなみに、現在は2月3日を指す節分ですが、1984年までは閏年に限り、2月4日でした。
それが(予定では)2025年以降、閏年に限り、2月2日になります。
豆知識として頭の隅で覚えておくといいかもしれません。
まとめ
節分は、新しい春の訪れを一年の始まりと考えた、祖先の知恵から始まった行事なのかもしれません。
心新たに節分を迎え、福のある春を迎えましょう!